kokodamのピアノ日記 vol.5

海と森が見える家に住み、ピアノを弾いています。日々思うこと、感じたことなど、綴っていきます。

内面を描くvs.内面を切り離す

こんばんは♪

モンポウの後期作品の不思議な魅力に憑りつかれ、そこから連想する抽象画の世界、さらにそこから近・現代の美術、近・現代の音楽…、ってことを、この連休中、ずーっと考えてました。


モンポウの創作は、やっぱり私の中では、川端実と重なるところが多いです。

「…ぼくの絵には、いつもなにかしら心理的な体験がある。この体験を証拠だてるために、…物質と観念の世界を最初に否定しさって、ぼく自身の心象風景を、純粋に造形的な操作で画面に形象化しようとする。…その意味でぼくの絵はぼくの内部世界の等価物でもあるんだナ。」

彼はフォーヴィスムキュビスムを経て、一時期、工場の中の「機械」を繰り返し描いていた時代があります。
しかし彼は、人間と機械との対立とか、機械それ自体の抽象的な美を描こうとしたのではない。
「機械と人間の生命が一緒になってかもしだす工場での圧倒的な魅力」「作者であるぼくの心に歯車が刻み付けた印象なり不安な感情なり心理的なものを、ぼくという鏡を通して映しかえした歯車なんです」「ぼくの抽象は非人間的な冷たい純粋なアブストラクションというより、人間的なものにさせられたアブストラクションだといえるかもしれない」


一方で、同時代に抽象表現に向かっていった画家たちの中には、もっと無機的なもの、厳しく幾何学的なもの、機械そのもの、速度そのもの…、を描こうとしたものまで、さまざま。


この指向の違いはどこからくるのか?というところなんですけれども。

青柳いづみこさんの著作「音楽と文学の対位法」の中の、「ラヴェルとレーモン・ルーセル」の章が、またこの話と重なりまして。
彼らが生きた19世紀末は、つくり物の美しさが賞賛された時代。反自然的なもの。
「機械文学」と呼ばれる作品群を書いたレーモン・ルーセルと、ラヴェルが、青柳さんの中では重なるのだそう。

十代のラヴェルは抒情派だったらしい。しかし、次第に複雑で感受性の鋭い性格を隠そうとするようになったとのこと。
青柳さんは、「大事なことは、作品にロマンティックな表情をつけることではなく、あえてそうしたくないラヴェルの気持ちをくんでやること、放っておくと際限なくロマンティックになってしまうのがこわくて、可能な限りそれを隠そうとするラヴェルの含羞に、共感をもって演奏すること」だと。

いっぽうルーセルは、「極度の含羞」「裏返しのロマンティシズム」で片づけられるようななまやさしいものではなく、「内面とは彼にとって、神経症の待ち構えている、おぞましい汚水溜にすぎなかった。…彼の唯一の関心事である創作に当たっては、なんとしてでも作品を、内面の汚染から守らねばならない。…内面の拒否が、彼の方法という苦肉の策を生んだのである」「…ルーセルは自然と自分のあいだに最大限の隔てをおくことが必要であると常に考えて…」


・・・いろいろなんですねぇ~。


私は…、音楽も、美術も、無機的なものよりは、有機的なものが好き。
建築で言ったら、ガウディなんて、すごく好き。モンポウと同じくカタルーニャの、自然、植物、生き物…、それらからとった、さまざまのモチーフ。その空間に身を置いたときの、心地よさ。

でも、ふりかえってみたら、そうでない時も、あったかもしれないな~と思う。
あらゆる人間的なものを排除して、数式や理屈で割り切れる世界、それを唯一信じられるものと思っていた時期もあったと思う。

いろいろなものが高度に発達した現代だから、人間の趣向や嗜好も、さまざまでしょう。
「心」を相手にしていると思っていた音楽や美術も、そうでないのかもしれなかったり。いやでも結局、それも人間の心の営みの結果であったり。「美」の追求そのものに意味があるような、ないような。「美」の感じ方も、これまた人それぞれであったり。

・・・結局、よく分からないですねぇ~。


唯一分かるのは、自分のことだけかな。
自分の経験と、置かれている立場から、自分の求めているものがある。ってことだけ。


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