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kokodamのピアノ日記 vol.5

海と森が見える家に住み、ピアノを弾いています。日々思うこと、感じたことなど、綴っていきます。

アルゲリッチ 私こそ、音楽!

…こんな映画が近日公開されるのですね。

アルゲリッチの三女、ステファニー・アルゲリッチの描く、ドキュメンタリー映画。
初監督作品なんだとか。


映画『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』9月27日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国公開! - YouTube


公式HPに載っていたステファニーの言葉、凄かった~↓(まるごと引用してしまいました);

私の母がこの映画の主人公である。この映画によって、母の様々な面が明らかになればと思っている。もちろん名演奏家であり、時には言葉よりも音符が多くを語ることもある。聖なるステージの怪物である母はスターであり、スターらしくあらねばならないのだ。
一方で、彼女は大人になりきれていない女性でもある。ステージでの緊迫感や直接性から離れると、常に迷いながら生きている。「本当の人生?それは他所にあって、こんなんじゃないわ…ほんの少しだけでも良くするにはどうしたらいいのかしら?」底なしの井戸のように、満足というものを知らない人なのである。そして自分の混乱、疑念の渦へ他人を巻き込んでしまう。巻き込まれた方はそこで迷子になってしまうのだが、当の本人はいつも簡単に出口を見つけるのである。
迷い、道を見つけ、ここはどこだろうと自分に問いかけてみる…。子どもの頃から私たちはそれぞれ色々な感情を経験し、その感情によってどうにかこうにか自分というものを構築しようと試みている。

“音楽界の巨匠を親にもつ娘”として生きるのは容易なことではない。自分を肯定するまでには、いわゆる普通の家庭の人たちよりも多くの障害を乗り越えなくてはならない。私は、家族との生活にあまり多くを割けない程の情熱に身を焦がしている、完全に規格をはみ出したお手本を見ながら育った。
家族が揃った夕食、公園遊び、母親との朝食…こういった思い出を数えるのにも、片手の指で足りてしまう。こんな平凡に思えることでさえ、私にとってはずっと夢の世界のことだった。1児の母となり、私自身が朝食を準備する母親になった今は、少し夢が叶ったけれど。
私が小さい頃、母の演奏旅行にはほとんどついていった。母が協奏曲を練習する夜は、そのピアノの音色を聞きながら眠りについた。これはとても融和的な関係で、特に長い間誰もふたりの関係に割って入ってこなかった分、強い結び付きとなった。母が演奏旅行について来るようにと言うので、学校には時々しか行けなかった。あまりにもあちこち連れ回されたので、ついに反旗を翻し、ある時私は自分のパスポートを部屋の絨毯の下に隠した。しかし母は、「あの子が来ないなら、私も行かないわ!」と叫んだ。私の責任は重大だったのである。 娘なら誰でもそうだが、私も母とともに全ての時期を過ごした。時には離れ、また傍へ行き、また反発してみる…。私は母との関係の本質について考えてみた。そしてこれが、この映画を撮るきっかけになったのである。私は与えられた役割ではない、ある種の感情的な影響力の外側にある私だけの役割を見つけなければならなかったのだ。
この作業においては、姉たちの存在がとても大きかった。姉たちのおかげで、明確な比較ができたからである。私たちは母と、それぞれ全く違う関係を築いている。私たち3人の娘は、強い母親という遺伝子をしっかりと受け継いでいるが、それぞれの母との関係は、母の全く違った面をくっきりと浮かび上がらせているのだ。
一方父は、私が子どもの頃にはほとんど一緒にいなかった。今になってやっと距離を縮めようとしているところだ。この映画は父にも居場所を再び与え、自分の定位置を見つけるよう、その背中を押すことにもなったのである。

幾重にも絡まる複雑な感情的つながりを掘り下げるこの旅で、音楽は、母マルタと父コヴァセヴィッチの最大の味方であり、豊かだが苦悩に満ちた彼らの内面の世界への扉を開けてくれた。彼らの演奏を聴き、彼らと音楽について語り合えば、彼らの情熱に直接触れ、心の奥底までたどり着ける。
 復讐劇のように見えるかも知れないが、本作は和解への試みであり、両親と対等に向き合い、彼らの世界へ飛び込み、また彼らを私の世界へと誘おうとする映画だ。
私は34歳、母が私を生んだ年齢である。自分を省みること、自分であることの証明、そして自分の限界への挑戦の記録を、どうぞしばしご覧いただきたい。 
(2010年の記録より)